着物と浴衣の違いは何か?知らないと失礼になる和服に込めた意味!
ガッチャンです!
今回は、着物と浴衣の違いについて話します!
現在、世界中で人気の着物。和服と呼ばれることもありますね!
16世紀にはすでにヨーロッパでは着物という言葉があったと言われています。
ただ、着物と似ている服に浴衣がありますが、この違いって何か知っていますか?
ここを掘り下げながら、着物の歴史をご紹介しましょう!
動画で見たい方はこちらからどうぞ!
着物と浴衣の違いは何か?
違いは大きく分けて二つです。
一つは仕立て。着物には裏地がある袷(あわせ) というものと、裏地のない単衣(ひとえ)があり、夏には単衣を、秋からは袷を着ます。
一方で浴衣は裏地のないものしかありません。基本的に形などはほとんど一緒ですが、ここか違うところの一つ目です!
もう一つは襦袢(じゅばん)を着るか着ないかです。
襦袢というのは、現代で言うシャツです。着物の場合、夏だとしてもこの襦袢の上から着るのに対し、浴衣は襦袢を着ずに、肌の上や、下着の上から着用します。
さらにつける帯も違うんです。
浴衣には薄い帯を着けます。有名なのは兵児帯(へこおび)と呼ばれている物です。
着物は正装として使われていますが、浴衣は風呂上がりに着用されていた物です。
ですが次第に就寝前や、ちょっとした外出にも着用されるようになりました。
着物はというと、かなり古い歴史があります。
まず着物には様々な呼び方があります。
一番なじみが深いのは和服という言葉だと思います。着物と和服、この二つ、違いはありません。
正確に言うと少し違いますが、洋服か和服という種類分けだけなので、大きな違いはありません。
着物を取り扱う店を、呉服屋とも言います。
この二つも現在では大きな違いはありませんが、そもそも呉服というのは昔、中国の呉から伝わってきました。そのときに伝わった方法で織られた服なので、呉服といいます。
普段の着物とは違う素材で作られた物を呉服とよび、江戸時代頃までは明確に分かれていました。
着物の起源は?
Unknown (the former attribution to Iwasa Matabei is not now regarded as credible) 日本語: 岩佐又兵衛 / Public 遊女遊楽図
着物という言葉の起源は、読んで字のごとく着るもの。つまり衣服そのものを表していました。
それが訛り、現在の呼び方、着物という風に呼ばれています。
この着物、始まりはなんと平安時代。当時着ていたとされる小袖(こそで)が始まりと言われています。
小袖というのは、対丈(ついたけ)という袖の長さがぴったりで、小ぶりな袖のある衣服のことです。
ようするにツンツルテンです笑
この小袖、当時は下着でした。当時の人々の階級によって用途が変わっていましたが、主に下着の役割をしていたと言われていて、平安時代末期には肌着の役割に変わったようです。
その後、鎌倉、室町時代頃に、現在の着物の原型ができあがったと言われていて、戦乱の時代に入るとともに、動きやすく威厳のある姿に変わっていきます。
京都を東西に分けた大きな戦いで、戦国時代の幕開けになった応仁の乱。
このときに職人達は戦地から逃げていましたが、やがて西軍の本陣だった場所で再び織物業を始めます。
西軍の陣地で作った織物ということで、西陣織と呼ばれるようになりました。
江戸時代に入ると、町人文化が栄え出します。
この時期に元禄文様と呼ばれている金色の糸を多く使った小袖ができあがり、現在の着物とほぼ変わらない姿になったようです。
この背景には、鎖国をして、独自の文化が栄えた、というところが大きく影響しているのではないかと思います。
着るときに悩む人が多いこと
さあでは、着物や浴衣をいざ着る時、多くの人が悩むポイントがあります。
どちらの襟が前なのか?という問題です。
答えは右前です。右前とは、右の襟を下にして、左の襟を上にすることで、自分から見て、右の襟が先に来ることから右前と呼ばれています。
反対に着てしまうと、死装束になってしまうので注意してください。
これには諸説ありますが、有力なのは三つ。
一つ目は奈良時代に衣服令(えぶくりょう)という物ができ、庶民は右前で着ることが定められたというもの。
庶民と高貴な人々を一瞬で見分けられるように作られたこの決まりでしたが、亡くなったときだけは高貴な人と同じく送り出してあげようと願いが込められています。
二つ目はお釈迦様が亡くなったときに左前だったと言われていることです。
常に右前でこの世を表し、亡くなったときには左前であの世を表したと言われています。
三つ目は右利きが多かったから。
単純な理由です。実際に左前できるとわかりますが、本当に動きづらいです。
なので、右前に変わり、亡くなったときには動かなくてもいいので左前にしたという説です。
着物と浴衣に描かれている柄の意味は?
そんな着物と浴衣ですが、多くの柄があって、悩んでしまう人も多いですよね。
せっかくなので、柄についても触れておきましょう。
着物や浴衣には、縁起のいい物が画かれています。いくつか紹介しましょう!
まず外せないのが鶴です。長寿、そして夫婦円満を表しているので、花嫁さんが結婚式で着用する色打ち掛けに使われることもあります。
色打ち掛けとは、白一色の和装ではなく、華やかさを出し、明るい雰囲気にするための衣装です。
次は鳳凰です。こちらも夫婦円満を表していますが、ほかにも平和という意味も込められています。
次は松竹梅です。いつまでも緑を絶やさない松、まっすぐ真上に育つ竹、冬が終わればすぐに花を咲かす梅のコンビは、忍耐と成長の象徴です。
最後は観世水です。渦巻き状のこの柄は、水がとどまり続けないように、未来の変化を表しています。
そして、大人気と言えば花柄の着物ですね。
桜、牡丹、椿が有名です。
物事の始まりを表す桜は一年を通して着ることができる花柄です。
美しさを表したいのなら是非牡丹を選んでください。花弁が大きいこの花にぴったりです!
椿は古くから化粧品としても使用され、貴族に人気だったそうです。不老長寿の薬と信じられ、神聖さを表します。
僕のYoutubeチャンネルでは、様々な歴史を親しみやすく教えています!
ぜひ遊びに来てください!
鎌倉幕府はなぜ1185になったのか?京都に作らなかった理由とは?
ガッチャンです!
皆さんは、歴史の勉強をするときに年号まで覚えましたか?
僕は意識してはいませんがなんとかやっていました笑
中でも有名な年号と言えば鎌倉幕府の1192(いいくに)ですよね?
そこで今回は、鎌倉幕府について解説したいと思います!
なぜ、覚えた年号がかわったのか?そして、なぜ当時の中心だった京都から離れた場所に作ったのか?
ここを中心に説明していきますね!
動画で見たい方はこちらへどうぞ!
- 鎌倉幕府の概要
- なぜ鎌倉幕府は1185になったのか?
- なぜ京都ではなく鎌倉なのか
- 征夷大将軍の源頼朝は皇室と関係あり!
- 頼朝の妻はあの悪女!
- 弟はあの英雄として生存していたのかも
- 鎌倉幕府の滅亡はあの天皇によるものだった
- 終わりの挨拶
鎌倉幕府の概要
ではまず、鎌倉幕府の概要を説明しておきます
1177年から争っていた源氏、平氏は、1185年、壇ノ浦の戦いで源氏の勝利で幕を閉じます。
当時絶大な勢力を誇っていた平氏は、日本の英雄、源頼朝、義経兄弟によって滅ぼされ、頼朝は自身が拠点にしていた鎌倉で1192年、幕府を開きました。これがみなさんよく知る、鎌倉幕府です。
この源氏、平氏の戦いは、源平合戦、または治承寿永の乱とも呼ばれています。
しかし、現在では、1192年に開かれたと言われていた鎌倉幕府は、1185年に開かれたと教えられているようです。
このことについて順を追って説明しましょう!
なぜ鎌倉幕府は1185になったのか?
それでは、なぜ年号が変わったのか
いままでは1192年に作られたというのが定説でしたが、近年1185年に作られたと言われています。
1192年というのは、頼朝が、日本初の征夷大将軍、武士のトップに任命された年です。これを機に、鎌倉幕府が開かれたと考えられていました。
では1185年に何が起こったのか?
冒頭でもお話ししたように、1185年に壇ノ浦の戦いで、長年にわたる源氏、平氏の争いが終わりを迎えました。
これにより、事実上、頼朝は武士のトップになったわけですが、1192年に鎌倉幕府が開かれるまでに、空白の7年間が存在しています。
当時を記した書物関連には、壇ノ浦の戦いが終わった後から、1192年までの間に、書物の中で鎌倉幕府という言葉は見つかっていないそうです。そして、1192年にはすでに鎌倉幕府は存在しているように初めて登場しています。
今まではこれにより、1192年に鎌倉幕府が開かれたと解釈されていましたが、果たして頼朝がこの空白の時間になにもしなかったのでしょうか。
未だ憶測や解釈が生まれていますが、頼朝が何もしなかったというのは考えにくく、1185年に開かれたのではと言われてます。
なぜ京都ではなく鎌倉なのか
では何故、鎌倉を拠点にしていたのかという話です。
当時の日本の中心と言えば京都です。幕府を開くのなら、京都に開き、権力を誇示してもよかったのではないかと考える人もいます。
頼朝は、反平氏軍を立ち上げ、敗北をした後、1180年10月に、鎌倉へ入り本拠地としました。なぜなら、鎌倉というのは源氏のゆかりの地だったからです。
では、いつから源氏は鎌倉にゆかりがあるのか?
その起源は平安時代まで遡る必要があります。
頼朝から5代前の源頼義という人物が、治めていた土地が鎌倉なんです。
このときに、京都の石清水八幡宮を鎌倉へ勧請し、由比ヶ浜若宮ができました。
さらに、鎌倉を拠点にした理由はもう一つあります。
それは、天然の要塞だったからです
鎌倉というのは、東、西、北に山と谷が入り組んでいて、南は相模湾があります。
この地形のおかげで、敵は侵入しづらく、防御に敵しています。
さらに、頼朝は、物資運搬と防御の為にあるものを作りました。
それは、切り通しと呼ばれる、険しい山道に人が一人通れるだけの狭い道です。
狭い道にすることで敵が大軍で攻められず、一人ずつしか攻撃できないようにしたのです。
ちなみに現在も面影が残っている有名なもので、7つの切り通しがあります。
急な坂のために亀も引き返したといわれる、亀ヶ谷坂切り通し
遊女が住んでいたなど、多くの説がある、化粧坂切り通し
当時の主要道路だった巨福呂坂切り通し
現在も当時の雰囲気を残している、大仏切り通し
京都まで続いていた極楽寺切り通し
海の玄関として栄えた六浦までつながる、朝夷奈切り通し
こちらも当時の面影を残している名越切り通し
ここまでが有名な切り通しですが、これ以外にもおすすめの切り通しがあります。
それが、大きな岩のアーチがかかっている釈迦堂切り通しです。
以上のことから、頼朝は鎌倉を選んだと言われていますが、別の意見もあります。
それは、交通の要所だった。そして、朝廷から干渉を受けにくい場所だったからとも言われています。
これらの理由から頼朝は鎌倉に鶴岡八幡宮と作り、幕府を開いたと言われています。
征夷大将軍の源頼朝は皇室と関係あり!
では、せっかくなので、頼朝のことを簡単に説明しましょう。
彼は1147年5月16日に愛知県、熱田神宮内にあった現在の誓願寺にて生まれます。
熱田神宮と言えば、日本の宝物、草薙剣が奉納されています。つまり、頼朝は皇室との関わりが生まれながらにして
あったそうなんです。
推測では、彼は身長165センチほどで、年齢より大人っぽく、美形だったそうです。
源氏の御曹司で、高身長、美形。ずるいとしかいえません。
そんな彼は、弟がいます。義経です。
彼のことも後で少し話しますが、頼朝は弟との確執などを経て1199年1月13日になくなってしまいます。
原因は、落馬による体調不良と言われていますが、確証はないようです。
頼朝の妻はあの悪女!
さて、そんな頼朝は、奥さんがいます。
日本三大悪女と言われている北条政子です。
頼朝は政子のお腹に子供がいるときに浮気をしました。彼女は怒り、浮気相手の女性の家を取り壊します。それだけで収まらず、浮気相手を当時、死刑と同レベルだった流罪にしてしまうんです。
頼朝は、政子より先になくなってしまいます。すると政子は、鎌倉幕府を統率し始めます。彼女は、嫉妬深いだけではなく、素晴らしい統率力があったんです。
朝廷が鎌倉幕府に圧力をかけてきたとき、武士は動揺します。約19万人にもなる大軍が、権力を取り戻すために鎌倉へ攻めてきたためです。
政子は、混乱の中、武士に対して演説をします。
亡くなった将軍の意向を実行してください。
それでも、敵軍の味方になりたいなら、行ってもかまわない
この堂々とした演説は、鎌倉武士の心に響き、約19万人の大軍を倒してしまいました。
当時から、女性は強いと感じるエピソードですね。
弟はあの英雄として生存していたのかも
そして、忘れてはいけないのが、弟、義経のことです。
彼ら兄弟は、壇ノ浦の戦いの後、けんかをしてしまい、義経は鎌倉に帰ってくることはできませんでした。
義経は、トップである頼朝の意見を聞かず、自分の判断で、官位を受けてしまったり、平氏を倒すための行動を勝手に起こしてしまったので、頼朝は怒ってしまいました。
義経は現在の岩手県平泉に行き、藤原一族にかくまってもらい、ここで生活をすることになります。
ちなみに、ここには、黄金に輝く有名な金色堂があります
頼朝は、義経を捕まえるように全国に命令を出し、義経は自ら命を絶ちました。
そんな義経には多くの伝説があります。
京都で、天狗に戦い方を教わった、死なずにモンゴルへ渡り、チンギスハンと名前を変えて日本を攻めたなどですが、根拠はなく、多くの都市伝説として今も語り継がれています。
鎌倉幕府の滅亡はあの天皇によるものだった
そんな彼らが生きた鎌倉幕府。
北条政子の演説で一度は朝廷の大軍を倒した鎌倉武士たちは、1333年、後醍醐天皇率いる軍に再び攻め込まれ滅亡。鎌倉幕府は終わりを告げ、室町、戦国と、権力を争う戦乱の時代へと進んでいきます。
終わりの挨拶
いかがだったでしょうか。
日本で初めて開かれた幕府。そして時代に翻弄された源頼朝。まだまだ謎に包まれていますが、気になった方は是非調べてみてください。
僕のYoutubeチャンネルでは、様々な歴史について雑学を交えながら親しみやすく解説をしています!
この機会に是非遊びに来てください!
そして、皆さんも鎌倉へ行くときは、今日の話を思い出し、時代を感じながら散策してみてください。鎌倉、いいところですよ!!
ミステリー!ダヴィンチコードで語られたシオン修道会とキリスト教の教えを変える事実!
ガッチャンです!
今回はミステリーの世界にご招待しましょう。
これまでにご紹介してきた、キリスト、十字軍、テンプル騎士団、ダヴィンチの動画は、すでにご覧いただけましたでしょうか?
もし見ていない方は、先に見てもらえると今回の話がわかりやすいかと思います。
張っておきますので、是非見てください。
今回ご紹介するのは、映画、ダヴィンチコードで話題にもなった話です。
もしかすると、キリスト教の教義を根本から覆してしまうかもしれない内容です。
この映画は、過激なシーンも多いため、一部の国では放映禁止になった作品としても知られています。
今回お話する内容は、あくまでもミステリーなので、個人的な考えとしてきいてください。
この話を動画で見たい方は、こちらへどうぞ!
鍵を握る男
皆さんは、ゴドフロワ・ド・ブイヨンという人物を知っていますか?
Wikipediaより引用
彼は、十字軍の指導者の一人だと言われています。
十字軍というのは、以前の動画で解説したように、ローマ教皇が呼びかけて派遣をした遠征軍です。
彼らの目的は、聖地エルサレムの奪還。
ローマ教皇はキリスト教徒達に遠征を求めましたが、その際、「十字軍に参加すれば、罪の償いを免除する」と言いました。
聖地の奪還という意味では、これは間違いではないと思いますが、戦力を集めるためだけにここまでするでしょうか?
実はここに、今回の話の肝となる部分、キリスト教の考えが関連してきます。
キリスト教の失われた宝
キリストの動画でお話ししましたが、彼は磔にされて処刑されてしまいます。このときに、ある物が失われたと言われているんです。
それが、聖杯です。
この杯に注がれた飲み物を飲み干せば、傷や病気が治る。それだけでなく、永遠の命が手に入ると言われています
しかし現在では、聖杯は失われている、または現存し、複数個あると言われています。
キリストが復活した場所、そして失われた聖杯。エルサレムの奪還。これらをつなげると、十字軍というのは、ローマ教皇というキリスト教のトップが呼びかけ、キリストの聖杯を取り戻すために送り込んだ。
罪の償いが免除になる、つまりそれは、エルサレムの奪還に協力すれば、キリスト教への信仰そのものを証明することになる、ということなのではと僕は思います。
教徒を守っていた騎士と秘密結社の繋がり
エルサレムの奪還後、十字軍は常駐軍を置きました。
テンプル騎士団です。
テンプル騎士団は、キリスト教徒を守るために組織され、エルサレムを護ったと言われています。
しかしそれは表向きで、本当は信仰そのものを守るために組織され、イエスの聖杯を探し続けていたのではないでしょうか?
映画でも彼らは、イエスの聖杯を探していますが、聖杯を大切に護っているような描写が印象的です。
何故なら、先ほど紹介したゴドフロワ・ド・ブイヨンはこの時期に、ある組織を結成したと言われているからです。
それが、シオン修道会です。
かれらは、1099年、ノートルダム・ド・シオン教会で発足した修道会で、ある秘密を守るために活動したと言われています。
それこそが、ダヴィンチコードで語られていた、聖杯、キリストの血脈です。
ダヴィンチコードが語るミステリーとは?
キリストは生涯独身だった。そして、天に召されたので、遺体もない。
しかしこれが覆るとしたら?
教会にとっては大きな打撃となるでしょう。
彼は、ある女性と夫婦だったかもしれないと言われています。
名前が、マグダラのマリア。
彼女は、ダヴィンチの描いた最後の晩餐にも登場しているのではないかと言われています。
最後の晩餐に描かれてあるイエスキリストと、マリアだと言われている二人の間。そこに大きなV字の空間があるのです。
変哲もないこの空間に、ダヴィンチはメッセージを残したのではと言われています。
男性と女性を表す時に、男性は矛の記号、女性はその反対です。つまりVは女性を表します。
この時点で女性といえば、イエスの奥さんといわれているマリアです。
さらに、最後の晩餐が描かれた頃、マリアは妊娠をしていたとも言われています。
そのことから、聖杯は聖なる杯。つまりマリアの子宮のことを表しているのではないかとも言われています。
もしそうなのだとしたら、さらに問題が出てきます。
キリストは独身のはずです。聖なる杯、つまりマリアの子宮は、神聖な物。本当に子供がいたとしたらどうでしょうか?
キリスト教では婚姻前の性交渉は御法度とされていました。純血ではなくなるからです。
これこそ、ダヴィンチコードで語られているミステリーなんです。
秘密を守っていたシオン修道会
彼の血脈が今も残っているとしたら、消し去りたい人物と守り抜きたい人物がいてもおかしくはありません。
シオン修道会はこの秘密を守ろうとしました。
そして、テンプル騎士団はそのために動いていたかもしれません。
テンプル騎士団は莫大な権力を持っていました。
彼らは世界初の銀行を発足させたことでも有名です。
しかし彼らを陥れたのはフランスの国王でした。
そして、フランス王国とつながりが深いマーク。それが百合の紋章です。
これは、宗教的に見れば受胎告知、三位一体を表します。
伝説によれば、フランスでこの紋章が使われ出したのは493年。メロヴィング朝のクロヴィス1世がキリスト教へ改宗したときと言われています。
そしてこのメロヴィング朝の血筋を引いているのが、シオン修道会の最後の総督、ピエール・プランタールです。
しかし彼は、1993年、メロヴィング朝の血筋の話は嘘だと公言しており、これによりシオン修道会そのものも、でたらめではとささやかれています。
そして、聖母マリアを表すこの紋章は、画家ボッティチェッリの絵でも有名です。彼は映画の中で、シオン修道会の会員だと言われています。
テンプル騎士団はある日、聖杯の捜索をやめました。銀行業務に精を出し始めたのです。
もしこれが、目くらましなのだとしたらどうでしょうか?
彼らの銀行は、勢力内ならばどこでも換金ができました。そして、信頼の元、預かり証は金銭と同等の価値をもちます。
このシステムのおかげで、彼らは各地に自由に飛び回ることができました。そして、聖杯を見つけたとしたら。もちろんそれは、マリアの棺です。
シオン修道会はこの秘密を守っているといわれています。
テンプル騎士団が陥れられた本当の理由
テンプル騎士団の動画でもお話ししたように、テンプル騎士団を、悪魔崇拝や異端者という虚偽で陥れたのは、すべてフランス国王の息のかかった高位聖職者です。つまり、教会側の人間です。
秘密を知った騎士団を抹殺し、キリスト教の威厳を守るために起こした行動なのだとしたら?金銭という名目は、騎士団のメイン業務になりつつあるからなのだとしたら?
かれらは陥れられたと考えられるでしょう。
マリアの遺体はどこにあるのか?
マリアの物と言われている遺体は現存しています。本当にマリアの物なのか?そして、シオン修道会が守っている血筋は今も現存しているのか?
テンプル騎士団の財宝は金ではなく、キリストの本当の想いなのだとしたら…
世界を変えてしまうかもしれないミステリーだと思います。
今回は終わります!
僕のYoutubeチャンネルでは、世界中の歴史を親しみやすく雑学を交えながらお話ししていますので、ぜひ遊びに来てください!
ではまた!