鎌倉幕府はなぜ1185になったのか?京都に作らなかった理由とは?
ガッチャンです!
皆さんは、歴史の勉強をするときに年号まで覚えましたか?
僕は意識してはいませんがなんとかやっていました笑
中でも有名な年号と言えば鎌倉幕府の1192(いいくに)ですよね?
そこで今回は、鎌倉幕府について解説したいと思います!
なぜ、覚えた年号がかわったのか?そして、なぜ当時の中心だった京都から離れた場所に作ったのか?
ここを中心に説明していきますね!
動画で見たい方はこちらへどうぞ!
- 鎌倉幕府の概要
- なぜ鎌倉幕府は1185になったのか?
- なぜ京都ではなく鎌倉なのか
- 征夷大将軍の源頼朝は皇室と関係あり!
- 頼朝の妻はあの悪女!
- 弟はあの英雄として生存していたのかも
- 鎌倉幕府の滅亡はあの天皇によるものだった
- 終わりの挨拶
鎌倉幕府の概要
ではまず、鎌倉幕府の概要を説明しておきます
1177年から争っていた源氏、平氏は、1185年、壇ノ浦の戦いで源氏の勝利で幕を閉じます。
当時絶大な勢力を誇っていた平氏は、日本の英雄、源頼朝、義経兄弟によって滅ぼされ、頼朝は自身が拠点にしていた鎌倉で1192年、幕府を開きました。これがみなさんよく知る、鎌倉幕府です。
この源氏、平氏の戦いは、源平合戦、または治承寿永の乱とも呼ばれています。
しかし、現在では、1192年に開かれたと言われていた鎌倉幕府は、1185年に開かれたと教えられているようです。
このことについて順を追って説明しましょう!
なぜ鎌倉幕府は1185になったのか?
それでは、なぜ年号が変わったのか
いままでは1192年に作られたというのが定説でしたが、近年1185年に作られたと言われています。
1192年というのは、頼朝が、日本初の征夷大将軍、武士のトップに任命された年です。これを機に、鎌倉幕府が開かれたと考えられていました。
では1185年に何が起こったのか?
冒頭でもお話ししたように、1185年に壇ノ浦の戦いで、長年にわたる源氏、平氏の争いが終わりを迎えました。
これにより、事実上、頼朝は武士のトップになったわけですが、1192年に鎌倉幕府が開かれるまでに、空白の7年間が存在しています。
当時を記した書物関連には、壇ノ浦の戦いが終わった後から、1192年までの間に、書物の中で鎌倉幕府という言葉は見つかっていないそうです。そして、1192年にはすでに鎌倉幕府は存在しているように初めて登場しています。
今まではこれにより、1192年に鎌倉幕府が開かれたと解釈されていましたが、果たして頼朝がこの空白の時間になにもしなかったのでしょうか。
未だ憶測や解釈が生まれていますが、頼朝が何もしなかったというのは考えにくく、1185年に開かれたのではと言われてます。
なぜ京都ではなく鎌倉なのか
では何故、鎌倉を拠点にしていたのかという話です。
当時の日本の中心と言えば京都です。幕府を開くのなら、京都に開き、権力を誇示してもよかったのではないかと考える人もいます。
頼朝は、反平氏軍を立ち上げ、敗北をした後、1180年10月に、鎌倉へ入り本拠地としました。なぜなら、鎌倉というのは源氏のゆかりの地だったからです。
では、いつから源氏は鎌倉にゆかりがあるのか?
その起源は平安時代まで遡る必要があります。
頼朝から5代前の源頼義という人物が、治めていた土地が鎌倉なんです。
このときに、京都の石清水八幡宮を鎌倉へ勧請し、由比ヶ浜若宮ができました。
さらに、鎌倉を拠点にした理由はもう一つあります。
それは、天然の要塞だったからです
鎌倉というのは、東、西、北に山と谷が入り組んでいて、南は相模湾があります。
この地形のおかげで、敵は侵入しづらく、防御に敵しています。
さらに、頼朝は、物資運搬と防御の為にあるものを作りました。
それは、切り通しと呼ばれる、険しい山道に人が一人通れるだけの狭い道です。
狭い道にすることで敵が大軍で攻められず、一人ずつしか攻撃できないようにしたのです。
ちなみに現在も面影が残っている有名なもので、7つの切り通しがあります。
急な坂のために亀も引き返したといわれる、亀ヶ谷坂切り通し
遊女が住んでいたなど、多くの説がある、化粧坂切り通し
当時の主要道路だった巨福呂坂切り通し
現在も当時の雰囲気を残している、大仏切り通し
京都まで続いていた極楽寺切り通し
海の玄関として栄えた六浦までつながる、朝夷奈切り通し
こちらも当時の面影を残している名越切り通し
ここまでが有名な切り通しですが、これ以外にもおすすめの切り通しがあります。
それが、大きな岩のアーチがかかっている釈迦堂切り通しです。
以上のことから、頼朝は鎌倉を選んだと言われていますが、別の意見もあります。
それは、交通の要所だった。そして、朝廷から干渉を受けにくい場所だったからとも言われています。
これらの理由から頼朝は鎌倉に鶴岡八幡宮と作り、幕府を開いたと言われています。
征夷大将軍の源頼朝は皇室と関係あり!
では、せっかくなので、頼朝のことを簡単に説明しましょう。
彼は1147年5月16日に愛知県、熱田神宮内にあった現在の誓願寺にて生まれます。
熱田神宮と言えば、日本の宝物、草薙剣が奉納されています。つまり、頼朝は皇室との関わりが生まれながらにして
あったそうなんです。
推測では、彼は身長165センチほどで、年齢より大人っぽく、美形だったそうです。
源氏の御曹司で、高身長、美形。ずるいとしかいえません。
そんな彼は、弟がいます。義経です。
彼のことも後で少し話しますが、頼朝は弟との確執などを経て1199年1月13日になくなってしまいます。
原因は、落馬による体調不良と言われていますが、確証はないようです。
頼朝の妻はあの悪女!
さて、そんな頼朝は、奥さんがいます。
日本三大悪女と言われている北条政子です。
頼朝は政子のお腹に子供がいるときに浮気をしました。彼女は怒り、浮気相手の女性の家を取り壊します。それだけで収まらず、浮気相手を当時、死刑と同レベルだった流罪にしてしまうんです。
頼朝は、政子より先になくなってしまいます。すると政子は、鎌倉幕府を統率し始めます。彼女は、嫉妬深いだけではなく、素晴らしい統率力があったんです。
朝廷が鎌倉幕府に圧力をかけてきたとき、武士は動揺します。約19万人にもなる大軍が、権力を取り戻すために鎌倉へ攻めてきたためです。
政子は、混乱の中、武士に対して演説をします。
亡くなった将軍の意向を実行してください。
それでも、敵軍の味方になりたいなら、行ってもかまわない
この堂々とした演説は、鎌倉武士の心に響き、約19万人の大軍を倒してしまいました。
当時から、女性は強いと感じるエピソードですね。
弟はあの英雄として生存していたのかも
そして、忘れてはいけないのが、弟、義経のことです。
彼ら兄弟は、壇ノ浦の戦いの後、けんかをしてしまい、義経は鎌倉に帰ってくることはできませんでした。
義経は、トップである頼朝の意見を聞かず、自分の判断で、官位を受けてしまったり、平氏を倒すための行動を勝手に起こしてしまったので、頼朝は怒ってしまいました。
義経は現在の岩手県平泉に行き、藤原一族にかくまってもらい、ここで生活をすることになります。
ちなみに、ここには、黄金に輝く有名な金色堂があります
頼朝は、義経を捕まえるように全国に命令を出し、義経は自ら命を絶ちました。
そんな義経には多くの伝説があります。
京都で、天狗に戦い方を教わった、死なずにモンゴルへ渡り、チンギスハンと名前を変えて日本を攻めたなどですが、根拠はなく、多くの都市伝説として今も語り継がれています。
鎌倉幕府の滅亡はあの天皇によるものだった
そんな彼らが生きた鎌倉幕府。
北条政子の演説で一度は朝廷の大軍を倒した鎌倉武士たちは、1333年、後醍醐天皇率いる軍に再び攻め込まれ滅亡。鎌倉幕府は終わりを告げ、室町、戦国と、権力を争う戦乱の時代へと進んでいきます。
終わりの挨拶
いかがだったでしょうか。
日本で初めて開かれた幕府。そして時代に翻弄された源頼朝。まだまだ謎に包まれていますが、気になった方は是非調べてみてください。
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この機会に是非遊びに来てください!
そして、皆さんも鎌倉へ行くときは、今日の話を思い出し、時代を感じながら散策してみてください。鎌倉、いいところですよ!!